人生を後悔より「幸せ」で満たしたい。私が発信し続ける理由

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訪問ありがとうございます。けんです。

この度は、私のプロフィールページをご覧いただき
ありがとうございます。

これまで私が自分を開示することは
そんなになかったのですが、

公表しようと思います。

こんなところまでご覧いただけるなんて。
相当に気にかけていただいてますね。

正直、めちゃくちゃうれしいです。
今後も気にかけ続けてください。

さて、

このプロフィールでは、X(旧Twitter)やYoutubeでは
語っていない、

私のこれまで
私の心の動き

を記録しました。

私のことをシンプルに箇条書きすると、

・文系大学卒のシステムエンジニア
・企業内ITエンジニアに転職
・年収1千万程度で転職できる資格と経験あり
・会社に直訴し、副業の許可ゲット
・副業は総額で17万をこえる収益
・そのお金を全て、自己投資に回す。
・目指すは、本業の額を副業で超えること
・最終ゴールは、定年退職しても
 お金に困らず安心して過ごせるようにする

こんな感じ。

恵まれた人生じゃないか!!

と思われた方がいるかもしれないですね。

でも、

そんなことはなく、引っ込み思案な田舎者が、
失敗と実績を重ねた結果、
今があるだけです。

また、上には上がいます。

兆を超える売上を誇る企業の経営者もいれば、

個人の活動だけで年間に億稼ぐ人も。

しかも、めちゃくちゃ楽しそう。

いくつもの副業やる中の1つとして出会ったコンテンツビジネス。最初は、

・情報商材屋って、めちゃくちゃ怪しい
・詐欺やだまされたって聞いたことが。
 自分はだまされないぞ
・月5万や10万の副業が、身の丈かな

って思いながらも、情報収集してました。

ですが、情報収集を重ねるほどに、

もしかして、今が一番ビジネスの本質を学んでるのでは。。。?

と思うようになりました。
冗談でなく。

なぜって、ケタ違いに稼いでる人の思考やマインド、方法に直接触れてるし。
それらは類似点が多すぎる。

さらには、

「自分ひとりで生きてく力が欲しい」
「ビジネスで稼げる力をつけたい」
「企業に依存し続けちゃだめだ」

と切望してた私にとって、

なりたい姿に一気に近づけるチケットを遂につかんだ。

加えて、
就職活動でも感じたワクワク感の再来。

高揚感がブワーっとあふれるように高まりました。

そんな私の

生い立ち
経験してきたこと

ちょっと長くなりますが、その話をさせてください。

「いい子」で過ごしてきた幼少期

「あなたは小さなころからがんばりやだった」

と、両親から顔を合わせる度に言われます。

共働きだった両親の元で育った私が、思い出す幼少期の風景は、
・保育園
・昔住んでた借家の自宅
のいずれか。

寝る時間を除いては、
保育園にいる時間のほうが長かったです。

なので、両親に会える時間が
うれしかった。

とても厳しい父親。
その正反対のような母親。

どっちからも好かれたかった。
だから好かれるようにがんばってました。


保育園のおゆうぎ会。

土曜日に開催してくれてたので、
両親が揃って見に来てくれる貴重な時間。

いいところを見せようと
約4週間の練習期間、ひたすら練習。
振り付けも完璧に

「ぼくをみて!!」

な想いを全開に完璧に踊り切りました。

両親が「がんばってる」っていう時の具体例はいつも、このおゆうぎ会。

褒められたい

その一心だけで動き回ってました。

さびしい、、、をひた隠し

一方で、両親の視線と時間を奪う存在が
いました。

それが弟。

とてもかわいい弟だったんですが、

両親は、弟のほうにかまう時間が長い。

これがたまに、無性に気に食わなかった。

どうしても我慢できなくて
ちょっとつねったり、
弟の分のお菓子を多く食べたり。

それがきっかけで
弟を泣かせ、けんかにまでなりました。

でも、

「お兄ちゃんなんだから!」

と、しかられました。

かばってもらえる弟がうらやましかった。

でも、
「僕も…」って言えなかった。
言わなかったんです。

そう言うことで

また叱られたくなかった。

嫌われたくなかった。

だから、がまんしました。

この「がまんする」な経験とその経験量のおかげで、大人になってから

言い訳はしない。

なことに活かせています。

・・
ちょっと脱線しますが、

・ミスした時。
・結果が期待通りに出なかったとき。

色々理由はありますし、
弁解したいことはあります。

教えてもらってることでさえ、
違和感あったり反論したいことも
あります。

でも、上記を発することを
ぐっとこらえてます。

言い訳は誰も聞きたくないんです。
ミスしたこと
結果が出なかったこと

を謝り、次に発生しない方法を
考える。

言い訳がでる、というのは、
自身以外のコントロールできないことに
対する依存が大きいんです。

それって、
成功を他人に委ねてるのと一緒。

そうではなく、
他人に委ねる範囲を極力減らし、
または、
一切なくし、

自分自身が成功をコントロールする。
つまり、

自らが結果を支配する。

これができる人こそが、
仕事ができる人。
多くのお悩みを解決できる人。
多くの対価を得る人です。

それができる素養の一つが
言いたいことをグッと飲み込めること。

弟がいたからこそ
身についたスキル。

その意味で弟に感謝感謝です。

嫌われたくないから、行動しない

地方で自由気ままに過ごしてきた
小学校生活が終わり、中学生に。

私が中学生に在籍していた時代は、いわゆる
「荒れた中学校」がニュースになる時代。

で、入学した中学校も荒れてました。

昔ほどではない、と当時の先輩からは
教えてもらってましたが、

それでも怖い人は複数人いました。
見た目からこわい。

そんな人が近くにいる学校生活。
いじめられたくなくて

目立たない

を選択。行動でとか見た目とか。

とにかく”目立つ”ことを
ひたすらさけました。

見た目は普通。目立つ要素は入れず。
だれからも嫌われないように。

そんな自分が、他の人より”できる”存在になるためにやったのが勉強でした。

好きではなかったのですが、勉強はやった分だけ実力はアップします。

でも、周囲は勉強はやらなくなるので
どんどんと差が広がります。

“できる”存在になるのに、そう時間はかかりませんでした。

「勉強なら、それなりに優位を維持できる」

と手ごたえを感じた瞬間でした。

いま振り返って感じるのは、
中学生の頃から打算的。

かわいげがない中学生でしたが、

・いじめられたくない。
・怖いのはイヤだ。
・嫌われたくない。

自己保身の思考は
どんどんと強まっていきました。

その”代償”として、

濃い人間関係を築くのを捨てました。

浅く、あたりさわりのない
つきあい。

好かれることもないですが、
嫌われることもないです。

目立つこともない。
目立たないから目を付けられない。

今で言えば陰キャ。
でもそれでもよかった。
そっちのほうがよかった。

それほどに嫌われるのがイヤでした。

家を早く出たい

中学生活のおかげで、住んでた地域ではそれなりに有名な進学高に入学できました。

ただ、
「俺は勉強ができる」という自信は、

入学して3ヶ月も経たないうちに
ぽっきりと鼻を折られました笑。

私が「できた」と思うことは
周囲も「できた」。なので差がつかない。

できるのが普通の世界観。

3ヶ月も経つと、自分の立ち位置は
まったくの平凡であり、平均。

環境が変わるとこうも違うか…

と、
身にしみるほど味わいました。

その中で更にできるには。
これまでの経験から出た選択は、
もっと勉強すること。

将来、学校の先生になろうかな、
くらいの薄っぺらい夢しかなかった。

目標もない。
でも、負けたくはない。

入りたい部活もなく、帰宅部を選択
(というより、なにも選択しなかった)し、

中学生の時の成功体験を頼りに、勉強することにしました。

でも、

孤独なんですよね。
一人でやる勉強って。

うすい人間関係しか持たないので、
友人の家を行き来するようなこともなく、
学校に行って、帰宅。

帰宅して、ゲームしてマンガ読み
小説読んだ後で、大量の宿題。

効率も悪かったので、宿題を
終えるのは深夜。

「ゲーム時間へらせよ!!」

って今なら言えますが、
当時はゲームが精神安定剤。

ゲームがあったから、
高校生活を乗り切れました。

・・

そんな高校生活も3年目。
受験が近づくにつれ、
反比例するかのように、

「こんな生活をほんとに望んてるのか」

と自問するようになりました。

自分で選択した生活のはず。
そうなんですが、

「その生活でいいのか?」

って否定してました。まるで
私のせいではないかのように。

学校でも管理され、
自宅でも監視されてるような
感覚。
今となってわかる。
ただの被害妄想。

「早く勉強しなさい」
「早くご飯食べて」
「寝るなら布団に寝なさい」

と、少しずつですが徐々に
指示されるような生活に息苦しくなってきた
高校3年生のとき。

「自宅を出よう」

と感じ始めました。

大学進学を理由に
家を出よう。

地方から都会の大学へ。

誰も自分のことを知らないところへ。

やり直したかったのかも
しれません。

リセットしたかったのかも
しれません。

とにかく環境を変えて
自らを変えたかった

・・

そうきめて、ひたすらに勉強しました。
時にはイヤになって
親にあたり散らかしたりしてました。

そんな自分がイヤになりつつも
時間はどんどん過ぎます。

自暴自棄になりかけたときに
とどめてくれたのが、

親から嫌われたくない

小さなころからの思い。
反発する時もあったんですが、

心の奥では
見てほしかったんだと思います。

結果、運が重なり、
関東の国立大学の文系学部に
合格できました。

でも、
なんだかんだで希望する人生に
なってるのを、

自分のおかげ。

と勘違い満載に
高校を卒業していきました。

家を出たから見えた世界

地方から都会の大学へ来た翌日の晩。

「なんて自由なんだ…」 

楽しすぎた疲れの中、しみじみ感じました。

いつ起きるのも自由
いつ寝るのも自由
勉強するのも自由
ゲームし続けるのも自由
一晩中読書し続けても自由。

高校時代で感じてた、
毎日が金太郎あめを切ったかのような一日。
そんな同じ日が
なくなりました。

なんて自由だ!
一日がなんて面白いんだ!

・・・

と思ったのも、2週間ほどでした。

なぜか。

やらないといけないことが多すぎる!!

見えてなかったものが見えた瞬間でした。
とくに、家事。

炊事
掃除
洗濯

毎日少しずつ溜まり、1週間もすれば
食器は使い果たし、
水回りが少しずつ汚くなり
洗濯物はあふれてきます。

最初は新鮮でやってましたが、
続きません。だって、

まったくの未経験だった、なので
最初からうまくいくはずありません。

自炊は夕食の1品がせいぜい。
しかもマズい。

掃除だけで1日つぶれました。

新品の白色シャツがジーンズ色に染まった洗濯


そして、1週間後には元通り。
終わりがない。

全っ然、意識してませんでした。

これらは、親がやってくれてました。
日常生活で
意識しないでいいくらい。

やりたいことに注力できるように。

いなくなって見える事実。

「こんなに大変なんだ…家事」

いなくなってわかる、親のありがたさ。
ひとりでなんでもやれてた、

なんて思い上がりでした。

まったく周りが見えてなかった。
学生の頃は、あんなに周囲を気にしてたのに。

自宅では全く気にしてなかった。

「周囲」の見え方が偏ってました。

ひとり暮らしの体験で、これまで見てなかった周囲が見え始めました。

はじめて、自分のやりたいことを一筋にうちこむ

親元を離れた瞬間。

それは、「家をでたい」のゴール到達を
意味しました。

その結果、ゴールがなくなったんです。

大学に出してくれた親のために卒業は必須。
そう思い勉強はしたんですが、
高校と勝手が違いました。

勉強のゴールがないんです。

大学では、ゴールを自らの意思で決めない限り、ゴールに到達する経験ができません。

ゴール探し。

大学入学後の数週間は、そんな毎日でした。

サークルの新歓イベントにいくつか出ましたが、田舎者に都会のサークルは刺激的でした。

今風に言えば、キラキラしすぎ。

何すればいいか分からず、
場違いな場にポツンといる感じ。

(あぁ、、、なんか違う。ダメだ)

何度か参加する度に思ってました。

そんなある日、授業が終わり帰宅時に
目に入ったのが、アメフト部。
サークルではなく、部活。

キラキラとは違う暑苦しさ。

でも、

とても魅力的に見えました。

なぜって、一人ひとりが自身のレベルアップだけを目指してる。
チームが勝つために。

大学のそのグランド以外の周囲は楽しそう。
でも、この人たちは苦しそう。悔しがる。
でも、

勝つために、
自分のからだ一つで限界にチャレンジしてる。

気になりだすと、毎日目に留まります。

そのうちに

(勝つことを本気で目指す人たちの輪に入りたい…!!)

体は全く大きくなかったし、足も遅い。
高校時代に運動してなかったので、
まったくの場違い。

こんな自分でもやれるのか、
と葛藤はありましたが、

飛び込みました。

チームは受け入れてくれました。

輪に加われたことが、とてもうれしかった。

受け入れてくれたチームのために、勉強もそこそこに打ち込みました。

平日は部活+授業。
部活が休みの平日は、授業を詰め込みました。

で、
休日は部活。

毎日通学してました。

大学に行かないのは、
部活がシーズンオフになり、
学校が休みになる
お正月前後の10日ほど。

年越しと寝正月は実家で。
家事をしないでいいことに感謝。

そんな大学生活でした。

・・

選手としては、ポンコツでした。
ムリもしたしケガもしました。

・体格のいい後輩
・運動センスある後輩
に、簡単に追い抜かれて
試合も数プレーの出場のみ。

最終学年となる4年目。
梅雨に入る直前の蒸し暑い日。


「最高学年の選手は、プレーで背中をみせられないなら、選手としてはいらない」

とコーチの一言。
選手として戦力になってない。
と監督・コーチは判断しました。

ようは、クビです。

大学から徒歩10分の
家族連れが夕食でにぎわう
ファミレスで、

いい大人がクビを宣告されて
涙してる。

かっこわるすぎます。

ほんと悔しかった。

「たまにしか来ないあんたたちが何見て判断したんだ??」

言い出さず。
頭真っ白ではありましたが、

いちおう、大人の対応しました。

帰宅。

はらわた煮えくりかえってはいましたが、
帰宅中に少し冷静になり
これからについて考え始めました。

「なにしてんだろ」
「なんのためにやってきたんだろ」
「プレーできないならやめようかな」

と思いつつも、次第に

「もっとできたことはあったのでは」
「何したくて始めたんだっけ」

と未来だけでなく、過去にも
目を向けだしました。

気づけばあたりは明るくなってました。

結果、クビ宣告を受け入れました。
受入れて、チームに残ることにしました。

やめる、の選択もありました。
イヤだ!と抵抗する選択もできました。

それがチームのためになるなら。

経験が豊富な監督やコーチが
見切った。

それがチームが勝つために必要と
判断したから、見切った。

監督やチームが考えた
「勝つため」の判断。

その事実は受け入れるしかありません。
これまでの蓄積の結果です。
誰のせいでもなく、
自分の過去の積み重ねの結果です。

数年前、輪に加えてくれました。
その輪の中で、チームが勝つために何ができるか。

その役割は選手ではない。

監督・コーチが判断したんです。
別の役割で何ができるか考えよう。

まったく本位ではない。
ないんですが、
事実を受け入れました。

選手をあきらめ、スタッフになることを
決心しました。

翌日から、
プレー以外でできる事は何でもやりました。

*いちばん早くグランドに来て、
*雨天翌日のボコボコのグランドを整備し、
*練習中はプレーの録画や審判役を実施し、
*練習後の居残り訓練に付き合い、
*筋力トレーニングのサポートしました。

帰宅後も
*プレーの録画データの編集やダビング
(ダビング、ってわかるのかな…
 コピーです。)
*監督やコーチとの連絡

などなど。
チームに関わる時間は自然と長くなりました。

全てはチームが勝つために。

プレーで直接貢献できない。
プレーするチームメンバの負担を
少しでも減らして、
プレーに集中できるように。

自己中で周囲が見えてなかった自分が、
“周囲”の立場になることで、

「人の役に立つことを考える」が
鍛えられた経験ができました。

1つ、犠牲にしたのが就職。

4年目は部活に打ち込む。と決めたので
就職活動は全スルー。

卒論未提出で留年しました。

結婚とUターン転職

1留で挑む就職活動。

すんなりいくことはなく、
大きな壁にぶつかりました

職がない。

そう、就職氷河期。

特に文系学部の卒業生が就職する企業は採用を見送り。

銀行
商社
大手企業の事務職。

門戸がちょっとでも空いている企業や、公務員採用に多くの学生が殺到しました。

なので、
勉強はほどほど、脳みそが
筋肉でできてるような1留大学生に
開かれた間口はありませんでした。

そんな中での一筋の光が

IT革命

インターネットが世間で普及しだした直後。
いわゆるIT業界は他の業種に比べて活況。

ただ、IT業界はいわゆる理系の情報工学を学んだ人が”主戦場”で就職する業界。

情報工学なんて学んだことない
戦場に素手で立ち向かう私が
どう太刀打ちできるか

・・・
なんて考えずに、とにかく飛び込みました。

職がないんです。

無職で大学を出る訳にはいかない。

両親に申し訳ない。

その思いだけで、職をさがしまくりました。

動機はそんなんでしたが、
業界研究するうに、1つだけ興味をそそられる点がありました。

それが、

「無から有を生み出せること」

一般的に企業は、
部品を加工し価値を付与し商品を作ります。

その点、
プログラミングって、部品が要らないんです。部品ゼロからスタートできます。

なにもないところから、
プログラムコードを設計書通りに書けば
実行ファイルが1つできあがり。

モノが生まれました。

すごくないですか?

部品の”仕入”が要らないんです。
お金がかからないんです。
部品や商品の在庫置き場も要らない。

こんなビジネスがあるのか!!

きづいたとき、心躍りました。
儲かる。とかより、面白い

この魅力にハマりました。

ありがたいことに拾ってくれた会社があり、
そこへ就職。

関東で就職するだろうなーと漠然と思ってたんですが、
まさか地元の近くが本社の企業に就職。

何かの縁は感じてましたが、
勤めて1年目で出会った人と、結婚しました。

まったくモテることなく、キラキラな感じが苦手だった私。

そんな自分が結婚できるとは。

振り返ると、
不思議と素の自分を見せることができました。

精一杯かっこつけてはいましたが、
時折でてくるボロを笑ってくれる人でした。

もったいないくらいの人に出会えたのも、
よくわからない業界に飛び込んだから。

無から有を生み出せる、な面白さに蓋をして
別の業界に就職してたとしたら。。。

間違いなく出会えてません。

やっぱり、面白いと思ったことに
チャレンジする。飛び込む。

このおかげで人生の風向きが変わりました。

・・

転勤などで地方都市を転々しながら数年。
紅葉が色づきだしたある日、妻から

「地元に帰りたい」との一言。

ちょうど仕事ぶりを認められつつありました。でも、

妻が言うなら。
ちょっと両親のことが気になりだした。
そんなタイミングでしたの、転職を決意。

まったくの素人レベルを、
プロのITエンジニアにまで昇華してくれた
企業でした。最後までお役にたちたい。

有給消化なんて無視。
最終日まで働ききりました。

完全なる社畜でした。

でも、このおかげもあってか、
恨まれたりやっかまれることもなく
円満に退社できました。

恨まれるよりは、全然 安いもんです。

転職後10日間でばたばたと引っ越し。
今の企業に転職しました。

後輩との突然の別れ

転職して10年ほど経過したでしょうか。

普段は連絡こないアメフト部の同期からのEメール。そこには3行、

「後輩の〇〇が亡くなった。、、、
 葬儀は、、、告別式は、、、
 住所は、、、」

の事務連絡。

え…

うそでしょ

後輩のなかで、いちばんタフだったはず。
なにが??どうして??

仕事中でしたが、時間が止まりました。
その後のことはよく覚えてません。

どう帰宅したか覚えてませんが、
家族に事情を伝え、無理を言って、
翌日朝イチの飛行機に搭乗して告別式に参列しました。

寝てるように横たわる後輩がいました。

喪主は奥様。その横にはまだ小さな5歳前後の2人の女の子。

かける言葉が見つかりませんでした。

後輩がいないことのショックより、
残された後輩の家族と
我が家族とのラップ。

この時に確信しました。

・家族を残して、先に逝くことはできない。
・万が一、そうなったとしても
 後悔しない/させない生き方をしたい

だって、自分なんかより有能な選手であり、
先輩からも後輩からも慕われていたのに。

そんな後輩でも
若くしてこの世から去ってしまう。

だったら、
同じ境遇に私がなるかもしれない。

この経験が、
後悔はしたくない。
やれるときにチャレンジしないといけない。

なマインドに変えてくれました。

押し寄せる不安。不安解消ための副業スタート

大学を卒業し、四半世紀をサラリーマンとして過ごしてきました。
昔は見えてなかったことが見えてきました。

定年退職とその後の人生。

今の生活でも、家族で暮らせるほどの収入はありますが、

今の企業を去ったあとに、
同じように収入を得られるはずはありません。

となると、今の生活を切り詰めて、
我慢しながら過ごしていくことになります。

多分、退職したころは子どもたちは
独立してるでしょう。

お金もそんなに支出しないかもしれない。
でも、

妻と2人で悠々自適。
そんなイメージがわきません。

年金とか、いつなくなるかも
わからないし。

年金だけに頼る生活なんて、
子どもの頃の縛られた生活に
逆戻り。

「そんな人生でいいのか?」
「後悔しないと胸張って言える人生なのか?」

と、時間があるときになやんでしまう日が少しずつ増えてきました。

そんな中で、たまたま受けた1つのセミナーが、雷に打たれたかのような衝撃を
与えてくれました。

衝撃のいくつかを挙げると、

✔スモールビジネスの存在
✔ブログアフィリエイトで稼ぐ、な働き方の種類
✔収入がサラリーマンの平均年収の数倍から数10倍
✔でも、自由に使える時間がたっぷり

今となっては、もっといろんな種類もあるし、もっと上のレベルの人がいる。

そんな感じですが、
当時はほんとうに衝撃でした。

サラリーマン生活の延長上では
とうてい到達しない世界観。

周囲にそんな人なんていません。

でも、そんな人に運よく出会えました。
しかも話を聞けました。この経験が、

企業勤めしかできない、

と無意識に思っていた感情を、

企業勤めしなくても収益出せるようになれば、
将来退職しても、お金の面で困ることが減るのでは。

な感情に変えてくれました。

果たして、そんな実力があるのか?
それ程稼ぐためにはレベルいくつ必要だ?

全くわからないことだらけ。

でも、飛び込まないとわからない。
飛び込んだら、なんかわかるかも。

な葛藤も脳内にひょっこり
でてきてました。

この時点で決まってましたね。

飛び込む。そして考える。

色々とデメリットを考えたんです。

・だまされてないか?
・今の生活を捨ててまでは飛び込めない…

それよりは、おもしろそう。
もっとビジネスレベルが上がりそう。

この好奇心に勝つことはできませんでした。

大したレベルになれず、
挫折するかもしれない。

当時は全体感が全くわからない。
そんな中での決意でした。
そこで、
いきなり会社を辞めて取り組むのではなく
「副業」として取り組むことにしました。

結果がでたら、
本業をやめて副業を本業にすればいい。

結果がでなかったら、それが実力。
きっぱり諦めて本業に注力すればいい。

副業は、スタートするだけなら、
誰でもできる んです。

お店を出す、とかなら別なんですが、
そんな形態でなければ少額の投資で
取り組めます。

〇〇ができるようになる本とか、
憧れの人が販売する教材とか。

・・

飛び込もうと決めました。
で、飛び込みました。

時間置くと、色々理由つけて
やめます。

教えていただいたあの人の背中を追いかけ
始めました。

ひたすら追いかけるだけ。鬼ごっこです。
あの人も、どんどん前に進みます。

あの人以上に進むためには、
あの人以上に進むための行動が必要です。

ただ、人って弱い生き物。
お気持ち・根性・義務感。

やらねばならない。な感じでは
すぐ挫折します。

面白さ・好奇心のような感情が必要です。
で、イヤになっても、やり続けるだけの
粘り強さ。

年齢の高い、いい大人だろうが関係ない。
子どものように無邪気に動き回らないと
追いつかないんです。

無邪気さの先にあるもの、それが
幸せだと思ってます。

年甲斐がない無邪気さ。

大人だから、と我慢しながら
生きる部分も時には必要ですが、

1度しかない人生。我慢だけで
終えるにはもったいないです。

最後まで新しい事に興味を持ち
面白いことを無邪気にやりきる。

そんな人生もありですよ。

って、これから定年をリアルに
考え出すサラリーマンの世代に
届いたらいいな。と思います。

ps

アイコンはあえて幼さを
感じさせるアイコンにしてます。

子どものように動きなさい。って
自らを鼓舞するために。

次の世代の幸せのために、自らを幸せな人生に

最後まで読んでいいただきありがとうございました。
これが私の人生の物語です。

私もアメフト部だった/マネージャーしてたよ
転職したよ。
副業したいんだよね。

など感じたことがあったら
ぜひLINEや X(旧Twitter)でも教えてください。

自分の平凡でしかない人生。
もし共感頂けることがあれば、
泣いてよろこびます。

それではありがとうございました。

2024年6月 けん。でした。

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